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白ペンギンが宣うた、白ペンギンHILOが日々つれづれに思ったことを宣うブログ

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記憶ってそんな"定まって"るか?

 1日遅れで今週のジャンプ。『ブリーチ』、子供に両親がその馴れ初めを話すのくらいはワリと普通だから構わんけど、「真咲は太陽みたいだった」とかサラッとのろけを口走ったのはさすがにどーかと思った(笑) まぁ肝心の息子当人が前に自分で、母親のことを「家族みんなの中心」みたいに同じく評してたからそんなに気にせんのかも分からんケド。
 『ソーマ』、そもそもが事態の中心人物は田所なので、創真とのコンビでしかも調理メインが田所というルール設定には納得。コレなら退学決定についての汚名返上と主人公の活躍も同時に描けるしな。でも物語的にはさらに先行きが見えなくなったのもあるよなー、この状況でどうやって遠月卒業生というバケモノを相手にした"ジャイアントキリング"を描いてみせるのやら。

 のーみそにマイクロチップを埋め込んで記憶の外部保存(?)ができるようにする技術が開発中なんだとか。んー、人間が脳でやり取りしてるのって基本的には電気信号なんだから、ソレを上手いことゼロイチのバイナリデータに変換してメモリ保存できるようにする、くらいのハナシなら「まぁ可能じゃね?」くらいに思うんだけど。でもいわゆるサイバーパンク的な、その記憶情報を自由に出し入れしたり他者に譲渡したりとかってのは個人的には難しいどころのハナシじゃ済まないんじゃないかと考えてるので、この技術も記事中にある通り医療的には意義が高そうだけど文面から想像するようなそれ以上の夢あるハナシにはそれほど聞こえてこなかったり。
 というのも、何か画像(映像)があって人間がソレを"記憶"しているとして、いま現実的な"外部出力"の手段としては「絵にして描く」ぐらいのもんだと思う。で、記事にある技術が確立すればその画像(の記憶)をデータ化して保存できるようになる、ならソコからの外部出力もできそうなもんだけど・・・でも人間が覚えてる事って大概あいまい・テキトーなもんで、そのテキトーな画像の記憶を、仮にデジタルフォト化できても正しくその画像にできるかは一切保証できないと思うんだよなぁ。例えばふたりの人間が同じ日暮れの光景を眺めていても、一方は山間に沈む夕日に注目し、一方は空の色や雲のカタチに注目してた、そうなると同じ光景のハズなのに記憶に残る内容には片寄り・差異が生じるよね、言いたいのは大体そーいったハナシ。そういった個々人の心境・心象による記憶の曖昧さをそのままチップに保存することは充分可能だろうけど、その記憶データから恣意的に任意の有用・必要な情報を取り出すって果たしてできるんだろうかと、ヒネクレ人間の自分は思ってしまう。
 その他にも、デジタルデータならハードウェア・ソフトウェアのアーキテクチャそれぞれによってフォーマットってモノが定まってるから同一仕様の元での規格統一も図れるんだけど、人間(生物)の記憶って自然言語で構築されてるワケでソレに統一規格って存在するんだろーかって疑念が昔からあるんだよなぁ。人間が思考を巡らせるためのオペレーションシステム的な何かがあるとして、ソレがAさんとBさんとで同一のOSだという保証ってないだろ? 私が無知無学なだけで脳科学的にはそのへんもう解明されてるのかもしれんけど、とりあえず個人的にはそのレベルで疑惑があるので、そんな千差万別の記憶データを何かぽいっと他者に移植するとかって、全然現実的に感じられない。そういうのサイバーパンクじゃよくあるネタだけど、ムダに理屈で考え始めると「無理だべ?」って自分はなっちゃうんだよなー。

 とまぁ、アレコレと余計なことを連ねてみたが。SF的なハナシを横に置いておけば、また記事中にあるような記憶障害やアルツハイマー等の治療に役立てるという利用方法は現実的だと思うし、そういう方面ではとても価値がある研究だとは感じる次第。自分自身の記憶情報なら自分自身に外部から移植されても受領・処理は可能だろうしなー、それこそ『シュタインズゲート』のタイムリープマシンのような未来記憶の過去移植といった風に。
 果たしてこの技術が発展進化して、まさにサイバーパンクよろしく記憶の任意転移が可能になるんだろうか? 人間の記憶を完全にマイクロチップのみに保存されるよう処置することで、特定記憶の削除や改変までも実現されうるのか? いまの自分はソレらを非現実的に思っているけど、でもそうした個人の想像を次々乗り越えていくのが先端科学だしなー、未来の自分がビックリするような研究成果が生まれてくることもまた、矛盾しながらも期待してみたり。
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たかがゲーム されどゲーム

  昨夜観たアニメでもそうだったが。マンガやなんかで、まぁ一種の残酷描写として腕だの脚だの切れたり吹っ飛んだりそーいうのあるけど、自分自身の実体験から言えることなんだがそういう身体欠損をやらかしてあとで何がツライって無い箇所がかゆくなるのが何よりイヤなんだよねぇ。ぶっちゃけ、いわゆる幻肢痛なんぞよりかゆみの方がよっぽどだと思う。や、「かゆい」のって痛覚の一種だからコレも幻肢痛とは言えるのかもしらんが。しっかし幻肢感覚ってなんで解消されないんだろうなー、個人的には身体神経の作動不良(バグ)みたいなモノ、あるいは万に一つ欠損部位が復活したとして再稼動に支障が起きないよう感覚系をワザと残してる、このどちらかだと思ってはいるのだが。

 ラストで感動の涙を呼ぶゲーム5選。昨日取り上げた記事と似てるようで似てない話題。ピックアップされたタイトルのいずれも、そのスジ(?)では相応に名の知れたゲームばかりで、良くも悪くもベターなラインナップといった印象。私個人でもこの中では4・5番なら知っているが、確かにどちらもラストで感動の涙を・・・私は流さなかったけど(笑)、少なくともラストシーンを見て言いしれない心地良さというか余韻を得られるような作品ではあったなー、と。
 しかしなんだ、色々と"分かる"チョイスだから余計に思ってしまう面もあるんだが、「ラストで泣けるゲーム」と言われて『MOTHER』シリーズや『大神』あたりが上がっていないというのは、余計なお世話とは知りつつも個人的に意外というか。自分の中だと前者ではあるイミ最も有名な『2』よりも『3』の方が、後者については追記特になく、といった調子だろーか。でも振り返って考えると、『MOTHER3』だと正確にはラストバトルのすぐあと、『大神』にしてもラストバトル中のワンシーンが感動の頂点で、物語の終わりに対しては「あぁよかった、おもしろかったー」と満足して終了みたいな感じだったから、「ラストで感動の涙」というのとは少し違うかもなぁ。
 いまコレ書いてて追加で思い出したけど、『Ever17』もスゲェ感動したタイトルだったものの、ピークを言うと物語全体の"仕掛け"が明らかにされた瞬間であって、ソレってエンディングまでまだけっこう残ってる段階のハナシだしなぁ。

 本当にエンディング、物語における最後の最後の場面で感動の最高潮を向かえるモノって、探そうとすると意外に見つからないものである。でもまぁ、広い記事に反論を言うようで難ではあるが、ゲームでも何でも物語に感動する場合って大体そんなモンではあるのかもしれんネ。

 

たかがタイトル されどタイトル

 次の日曜こそ映画観に行こう、と思って上映スケジュール調べたらスッゲェめんどくせー時間帯にしかやっていないという罠。やはり連休中の観賞に失敗したのは痛かった・・・ でも前売り買っちゃってるし、そもそも劇場で観なかったらきっと後悔するだろうから行くしかないんだが。一瞬土曜の夜に札幌乗り込んで観てきてそのままネカフェで一泊とかって強行も考えたが、それはソレでまた七面倒だしなぁ・・・・・・

 タイトル原案から改題されたライトノベル作品5選。どれも読んだことのない作品なんだが、まぁ4番と5番は改題の方が上手いというかスッキリしてて合ってるというか、そんな感じかも。ただ同時に、1と3とあと5も、個人的には原案の方が好きなんだけどなぁ。特に5、今どきだとこーゆうスタイルの題名って古くさいと感じられたりするのかも分からんが、でも元の方がカッコイイと自分は思うのよねー。いえ単純に自分の感性が古くせぇだけのハナシなんだが( ̄▽ ̄;)
 しかしまぁ、物語のタイトルを考えるってのも難しいトコだやな。先だっての記事末でも取り上げたりした通り、自分も余所のサイトに寄稿するカタチでいくつかそういうのやってるけど、いま手がけてるヤツは案外すんなりと思いついて自分でもソレなりに気に入ってるというかハナシの中身に合ってる題名だと感じてるんだが。でもその一方で、いま脳内でダラダラとアイディア集めてる最中な別のお話は、いちおうひとつ思いついたのはあるんだけどなかなか上手いタイトルってのが浮かんでこなくてなんともという。や、浮かんでこないったってソレ実際にモノとして作り始めるかどうかまったく見通し立ってないので、それこそ無用な悩みとは言えるんだけどサ。
 なんにしても、タイトル即ち「題名」、違う意味には「肩書き」というのもあるワケで、似合っていない・意味が伝わらない肩書きではなんの役にも立たない、その作品をバシッと分かってもらえてこそタイトル/題名・肩書きには価値があるってもの。著者当人の原案だろうと担当編集者の改題だろうと、上手く合ってるタイトルがついてこそというのはあるよなー、そんな当然のことを改めて感じた記事である。

何故いまオレはオッサンなのか

 日本の某企業が開発した子供向けメカスーツ。なんかもう久しぶりに現代の子供を素直にうらやましく思った。自分がガキの頃にこーゆうのがあったなら・・・!(拳を握りしめつつ)
 しかし予定販売価格約200万円って、コレけっこうお値打ち価格じゃないかって気がする。いや、何も個人で購入とかそんなハナシじゃなくて、例えば遊園地みたいなレジャー施設、アミューズメント施設で8台くらい導入して簡単なロボット対戦ゲームのステージを計画するとか、そういうのがものすごく現実的に感じられるんだよなぁ。だってゲーセンにあるような大型筐体(※音ゲーとかそういうの)だって、1台確か150万~250万ぐらいのがザラだったハズだし、ソレと比較しても決して超高額な玩具筐体とは言えないもの。定期整備による維持費がまたどのくらいのコストなのかも分からないからソコに懸念材料はあるけど、でもホント、4~5機編成でチームバトルゲームとかやれたらめっちゃ子供客呼び込めそうに思うのって私だけじゃない気がするけどなー。少なくともこんなロボットに乗れるだけで1回100円・200円なら訴求力は充分だろ。
 モチロン本当にそういう風に遊ばせるならソレこそ搭乗者のケガ等の安全が重要になるが、ソコ含めて面白いリアルゲームを計画できればすごく夢が広がる。あーイイなぁ、いまの子うらやましいな~・・・


 追加でオマケ、しばらくぶりで『ドラクエ10』本日の1枚。

 題して「川縁にひとり佇むキングスライム」
 ある場所でホントこうして1匹だけでずーっと、動き回ったり一切せずに川向こうを眺めてるだけという謎のキングスライム。自キャラにしても真横に立ってるけど、こんだけ近づいたら通常のモンスターは襲いかかってくるものが、コイツは絶対に動かない。しかもこの地域(フィールド)に出現するキングはこの1匹だけっていう。すっごく意味深というか、ある種の物語性を感じるんだよなぁ。

基本的には赤単好き

 昨日は正直半袖シャツスタイルでも気にせず仕事できるくらいの気候だったのに、今日ときたらウインドブレーカー着込んでないと厳しいレベルという。もう4月も終わろうってのに気温が安定しやがらねえ・・・

 マジックザギャザリングのフレーバーテキスト。う~んやっぱりいま眺めてもMTGのフレーバーはセンスを感じる(ようなモノが多い)なー。私が現役でプレイしていたのは高校3年の夏頃(←いまにして振り返ると心底フザケた時期に始めたモンだ・・・)から大学2年の秋ぐらいまで、エキスパンションで言うとミラージュからウルザズサーガのブロックの時代という、実際のトコロすでに大昔なレベルに加えてかなり短期間ではあるんだが。でもたまにこーしてネット界隈でMTG関連の記事を見かけると意識的に目を通したくなるし、そのたび「やっぱり面白そうだなぁ」くらいのコトは思ってしまう。結構マジメなハナシ、いまからまた買ってみても悪くないんだけど、でも現実問題としてプレイ仲間がいないからどーにもならんしな。プレイングそのものは多分当時の知識があるだけでも通用するんだろうと思うが。
 話題がビミョーにズレた。ともあれコレらフレーバー、英原文からのモノとソコに加え邦訳に際してと、ダブルでの言語センスによりキラリと光る文章に仕上がってるんだと思う。元がイマイチだと翻訳も上手くはならんし、翻訳がナイスだからこうして読んでカッコイイと実感できる、と。
 実を言うと先日も告知に取り上げた投稿作品なんぞでも、こうしたフレーバーテキストのセンスを参考にして書いてる箇所があったりするんだが・・・ウンまー上手くやれてるかについては疑問ですわな(苦笑) マネするのはいいけど実際できてるかどうかは別問題というハナシだぁね。

 ときに。MTGというと「マジック」あるいは「ギャザ」というのが主な口語略称だと思うがこの呼び方っていまでも使われてるんだろーか。私は始めの頃は後者を使ってて、時期に友人から矯正されて(?)前者の呼び方に変わったんだっけか。なんか「マジックと呼ぶのが正式だ」みたいに言われた記憶があるが・・・いまにして振り返るとちっと疑わしいなぁ(笑)